牧会活動事件

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で、本日、憲法に関するお話しです。

 

前回は憲法19条の思想良心の自由に関する判例を紹介しましたが、本日から憲法20条に移ります。信教の自由とよばれているものです。

 

憲法20条は

 

  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

と規定しています。

 

ところで、現在の憲法の前の憲法、明治憲法にも信教の自由に関する規定はあったのですが、法律によらずに命令によって信教の自由を制限することも許されると解されており、また、実際には、神社は宗教にあらずとされ、神社神道は国境として扱われ、逆に他の宗教は冷遇されておりました。そして、神社に与えられた国教的地位とその教義は、国家主義や軍国主義の精神的な支柱となったのです。

 

したがって、私自身、信仰心はまったくないものの、現在の憲法が信教の自由を厚く保障するとともに、国家と宗教の分離を明確化した意義は非常に大きいものといえます。

 

では、さっそく判例をご紹介します。

 

本日の判例は、牧会活動事件といわれているものです。

 

事案は、建造物侵入、兇器準備集合等の嫌疑を受けて逃走中の高校2名を親の依頼に応じ、境界に1週間宿泊させて説得、警察に任意出頭させた牧師が、略式裁判で犯人蔵匿の罪に問われたのを不服として正式裁判を求めた事件です。

 

そして、神戸簡易裁判所昭和50年2月20日判決は、

 

「前認定被告人の所為は、自己を頼って来た迷える二少年の魂の救済のためになされたものであるから、牧師の牧会活動に該当し、被告人の業務に属するものであったことは明らかである。」

 

とし、

「それが正当な業務行為として違法性を阻却するためには、業務そのものが正当であるとともに、行為そのものが正当な範囲に属することを要するところ、牧会活動は、もともとあまねくキリスト教教師(牧師)の職として公認されているところであり、かつその目的は個人の魂への配慮を通じて社会へ奉仕することにあるのであるから、それ自体は公共の福祉に沿うもので、業務そのものの正当性に疑を差しはさむ余地はない。一方、その行為が正当な牧会活動の範囲に属したかどうかは、社会共同生活の秩序と社会正義の理念に照らし、具体的実質的に評価決定すべきものであって、それが具体的諸事情に照らし、目的において相当な範囲にとどまり、手段方法において相当であるかぎり、正当な業務行為として違法性を阻却すると解すべきものである。」

 

そして、

 

「牧会活動は、形式的には宗教の職にある牧師の職の内容をなすものであり、実質的には日本国憲法二〇条の信教の自由のうち礼拝の自由にいう礼拝の一内容(即ちキリスト教における福音的信仰の一部)をなすものであるから、それは宗教行為としてその自由は日本国憲法の右条項によって保障され、すべての国政において最大に尊重されなければならないものである。  尤も、内面的な信仰と異なり、外面的行為である牧会活動が、その違いの故に公共の福祉による制約を受ける場合のあることはいうまでもないが、その制約が、結果的に行為の実体である内面的信仰の自由を事実上侵すおそれが多分にあるので、その制約をする場合は最大限に慎重な配慮を必要とする。  確かに、形式上刑罰法規に触れる行為は、一応反社会的なもので公共の福祉に反し違法であるとの推定を受けるであろうが、その行為が宗教行為でありかつ公共の福祉に奉仕する牧会活動であるとき、同じく公共の福祉を窮極の目標としながらも、直接には国家自身の法益の保護(本件の刑法一〇三条の保護法益は正にこれに当る。)を目的とする刑罰法規との間において、その行為が後者に触れるとき、公共の福祉的価値において、常に後者が前者に優越し、その行為は公共の福祉に反する(従ってその自由も制約を受け、引いては違法性を帯びる)ものと解するのは、余りに観念的かつ性急に過ぎる論であって採ることができない。後者は外面的力に関係し、前者は内面的心の確信に関係する。両者は本来社会的機能において相重なることがなく、かつ相互に侵すことのできない領域を有し、性格を全く異にしながら公共の福祉において相互に補完し合うもので、同時的又は順位的に両立しうる関係にある。何故ならば、そもそも国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の福祉のために行使されるべきものであり、両者はともにそのことを目標とするものであるからである。従って、右のような場合、事情によってはその順位の先後を決しなければならなくなるが、それは具体的事情に応じて社会的大局的に実際的感覚による比較衡量によって判定されるべきものである。この場合宗教行為の自由が基本的人権として憲法上保障されたものであることは重要な意義を有し、その保障の限界を明らかに逸脱していない限り、国家はそれに対し最大限の考慮を払わなければならず、国家が自らの法益を保護するためその権利を行使するに当っては、謙虚に自らを抑制し、寛容を以てこれに接しなければならない。国権が常に私権(私人の基本的人権)に優先するものとは断じえないのである。」

 

としました。   その上で、

 

「牧会活動の目的が通常正当なものであることは前述のとおりであるから、具体的牧会活動が目的において相当な範囲にとどまったか否かは、それが専ら自己を頼って来た個人の魂への配慮としてなされたものであるか否かによって決すべきものであり、その手段方法の相当性は、右憲法上の要請を踏まえた上で、その行為の性質上必要と認められる学問上慣習上の諸条件を遵守し、かつ相当の範囲を超えなかったか否か、それらのためには法益の均衡、行為の緊急性および補充性等の諸事情を比較検討することによって具体的綜合的に判定すべきものである。」

 

という基準を設定し、

 

最終的には、

 

正当な業務行為として罪とならないと判示したばかりか、「被告人の本件牧会活動は手段方法においても相当であったのであり、むしろ両少年に対する宗教家としての献身は称賛されるべきものであった。」

 

とまで判示しました。

 

 

「称賛」というそこまで判決で踏み込むことに異論がないわけではないですが、よく分析された判決で、判決を読むかぎり当然の結果で、むしろ、立件し、起訴までした捜査機関、検察の判断に疑問が生じてなりません。

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