死の壁

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弁護士の佐藤です。

 

昨日は、夕方、突然の豪雨で、その後もものすごい湿度で、不快感がマックスでございました。

 

本日は、日が出ていないせいか、いつもよりも若干過ごしやすいですね。

 

本日は、午前中、打ち合わせ、午後は、日弁連のテレビ会議です。

 

で、本日、一連のオウム関連事件の死刑囚のうち、残りの6人の死刑が執行されたとのニュースが。

 

死刑制度には賛否があって、わたくしの思いも、いつぞやのブログで書いた気がしているのですが、昨日、この死刑制度に関して、デイリー新潮から、非常に興味深い記事が。

 

「養老孟司さんは、著書『死の壁』のなかで、死刑執行について独特の見解を示している。国や制度にもよるが、死刑囚1人に対して複数の死刑執行人がいるというやり方は珍しくない。たとえばボタンを押す方式の場合でも、何個かボタンが用意されていて、複数の人間が同時に押す。押したほうは、誰のボタンが有効だったのかはわからない。

 

これは「殺す側」の心に配慮した工夫なのだという。

 

『毎回、マンツーマンで『自分が殺した』とわかったら、たとえ相手が極悪非道の殺人鬼ばかりでも、執行人の神経が持たないでしょう』(『死の壁』より)

 

養老氏がこうしたことを書いたきっかけの一つは、医師として安楽死の問題を考えてきたからだった。安楽死を安易に考える人は『死にたいっていう人がいるんなら死なせてあげればいいじゃないか』『植物状態では本人も家族も不幸なだけだ。早くケリをつけたほうがいい』と言うかもしれない。

 

しかし、そういう人は『死なせる側』の医師の立場は全く考えていない、と養老氏は指摘する。

 

『たとえば目の前に植物状態の患者や、病苦で『死なせてくれ』と言っている患者がいたとします。手元の注射を一本打てば、それで相手は安楽死する。では、そのときに、簡単に注射を打つことが出来るでしょうか』(同)

 

本来、医師の仕事は命を救うことである。にもかかわらず、人を死なせる行為をさせられたとして、平静でいられるのか。養老氏は『医者の立場からすると、やはり誰かを安楽死させたという経験は、生涯記憶に残ることのはずなのです』といい、一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が残るはずだとも述べている。

 

『医者も患者をモノとして見ているわけではありません。逆の言い方をすれば、そういう傷が残らないような人は、あまり医者としていいとは思えない。むろん、安楽死なんかを手がけないほうがよいのではないか』(同)」

 

というものです。

 

これまで、死刑制度は、「国」が人を殺めてよいのかということで議論がなされてきましたが、記事にあるように、実際に執行する人の気持ちは考えずにきていて、わたくし自身も、この記事を読んで、その負担の重さを改めて考えることとなりました。

 

また、同じように、安楽死については、わたしは賛成派だったのですが、安楽死させる医師の気持ちはやはり考えたことがなく、そういう視点が欠けていたことを恥ずかしく思いました。

 

 

いずれのテーマも簡単が議論ではありませんが、対国や制度、法律だけでなく、個の視点から考察や現場の苦悩も忘れてはいけない要素だということを痛感する記事です。

 

 

今度は、「死の壁」を購入して読んでみたいと思います。

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