徳島市公安条例事件

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弁護士の佐藤です。

 

さて、本日は、前回言ったように明確性の理論に関するものです。

 

明確性の理論とは、精神的自由権を規制する立法は明確でなければならないというものです。

 

なぜかというと、例えば、不明確な言葉で、何らかの行為を規制する法律があった場合、何らかの行為をしようとする者は、その法律に違反しているかどうかがわからず、委縮してしまう効果が考えられます。

 

例えばですが、前回の判例では、「風俗を害すべき書籍、図画」という文言が争いになりました。つまり、「風俗を害すべき」というものがどのようなものかが不明確ではないかというところです。

 

 

で、本日ご紹介する判例は、徳島市公安条例事件というものです。

 

これは、市条例の定める「交通秩序を維持すること」という許可条件の文言が不明確ではないかと争われた事件です。

 

この事件は、1審、2審とも不明確との判断になったのですが、昭和50年9月10日最高裁判決は、

 

「道路における集団行進等は、多数人が集団となつて継続的に道路の一部を占拠し歩行その他の形態においてこれを使用するものであるから、このような行動が行われない場合における交通秩序を必然的に何程か侵害する可能性を有することを免れないものである。本条例は、集団行進等が表現の一態様として憲法上保障されるべき要素を有することにかんがみ、届出制を採用し、集団行進等の形態が交通秩序に不可避的にもたらす障害が生じても、なおこれを忍ぶべきものとして許容しているのであるから、本条例三条三号の規定が禁止する交通秩序の侵害は、当該集団行進等に不可避的に随伴するものを指すものでないことは、極めて明らかである。ところが、思想表現行為としての集団行進等は、前述のようにへこれに参加する多数の者が、行進その他の一体的行動によつてその共通の主張、要求、観念等を一般公衆等に強く印象づけるために行うものであり、専らこのような一体的行動によつてこれを示すところにその本質的な意義と価値があるものであるから、これに対して、それが秩序正しく平穏に行われて不必要に地方公共の安寧と秩序を脅かすような行動にわたらないことを要求しても、それは、右のような思想表現行為としての集団行進等の本質的な意義と価値を失わしめ憲法上保障されている表現の自由を不当に制限することにはならないのである。そうすると本条例三条が、集団行進等を行おうとする者が、集団行進等の秩序を保ち、公共の安寧を保持するために守らなければならない事項の一つとして、その三号に「交通秩序を維持すること」を掲げているのは、道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解されるのである。」

 

とし、結論として、

 

「通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において、自己がしょうとする行為が右条項による禁止に触れるものであるかどうかを判断するにあたつては、その行為が秩序正しく平穏に行われる集団行進等に伴う交通秩序の阻害を生ずるにとどまるものか、あるいは殊更な交通秩序の阻害をもたらすようなものであるかを考えることにより、通常その判断にさほどの困難を感じることはないはずであり、例えば各地における道路上の集団行進等に際して往々みられるだ行進、うず巻行進、すわり込み、道路一杯を占拠するいわゆるフランスデモ等の行為が、秩序正しく平穏な集団行進等に随伴する交通秩序阻害の程度を超えて、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為にあたるものと容易に想到することができるというべきである。」

 

とし、秩序維持についての基準を読み取ることは不可能ではないと判断しました。

 

 

一審、二審の理屈と同様ですが、上記最高裁には、本条例3条3号の規定自体の明確性を問題とし、右規定は充それ自体およそ一般的、抽象的かつ多義的な概念であるばかりでなく、それが集団行進等が行われない場合に想定される「交通秩序を維持すること」であるのか、それとも集団行進等が行われる場合にはおよそかくあらねばならぬ「交通秩序を維持すること」であるのか、それとも集団行進等が行われる場合にはおよそかくあらねばならぬ「交通秩序を維持すること」であるのか、もし後者であるならば、それはどのような内容を想定しているのかという点については、はなはだ不明確な文言というほかなく、やはり、委縮効果という意味においても、憲法21条や罪刑法定主義をさだめた憲法31条に反するのではないかと、私自身は思うところです。

 

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