チャタレイ事件

Tulips

弁護士の佐藤です。

 

今週も昨日が休みだったことで、あっという間の金曜日です。

 

さて、本日も表現の自由についての判例をご紹介しますが、本日は、性表現に関するものです。

 

性表現は、わいせつ文書の頒布・販売罪が刑法で定められているので、従来は、そもそも憲法で保障された表現の範囲に属さないと考えられてきました。しかし、そのように考えると、わいせつ文書の概念をどのように決めるかによって、本来憲法上保障されるべき表現(例えば、芸術性の高いもの)まで憲法の保障外におかれてしますおそれがあります。

 

そこで、わしせつ文書の概念の決め方を憲法論として検討しなおそうという考え方がひろまり、最大限保護の及ぶ表現の範囲を画定していこうという考えが一般となりました。

 

 

本日は、性表現が問題となった有名な判例であるチャタレイ事件をご紹介します。

 

事案は、D・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳者と出版社が刑法175条違反で起訴された事件です。

 

まず、最高裁は、わいせつ文書について、

 

「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」

 

と定義づけしながらも、

 

「性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならめのである。」

 

としたうえで、

 

「本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する一二箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。要するに本訳書の性的場面の描写は、社会通念上認容された限界を超えているものと認められる。従つて原判決が本件訳書自体を刑法一七五条の猥褻文書と判定したことは正当」

 

と判断しました。

 

 

最近の判例で、刑法175条の合憲性が争われた判例はあまりないのだろうと思いますが、わいせつと芸術の堺というものは非常に難しいもので、最高裁が指摘するとおり、時代とともに価値観も判断も変わっていくのだろうと思います。

 

チャタレイ夫人を読んだことがないし、その時代に生きたことがないので、この判決の妥当性は不明ですが、今後も性表現と芸術の問題は難しい一面をもちつづけていくのだろうと思います。

 

 

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